2019/09/14

ビジョナリーとしての津田梅子

小平市が誇る津田塾大学学長の高橋裕子さんの記念講演にお招きいただきました!五千円札の顔となる津田梅子さんが今日の日本を築き上げてきたストーリーとビジョナリーとしての津田梅子の思考についてお話しをくださいました!梅子さんの葛藤と当時の空気感をより身近に感じることが出来ました。

津田梅子さんが五千円の顔をなりますが、それを成し得たのは、ご自身が得た知見を社会にどうしたら還元ができるのか。そして、人の一生だけではなく、次代へ繋げてきたパワーとバトンを受け継いできた人々の力によるものだと感じました。

以下、お話のメモです。

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・34歳で学校を設立

・父が留学募集に手を挙げた。
長女は嫌だったが、次女の梅子が行きたいと思った。

・北海道 黒田清隆
米国の女性の能力の高さに驚愕をした。その結果森有礼は子女の留学を上奏した。

・第一回目の時には募集の応募がなかったが、長期の期間だったので親が反対をしたが2回目の募集で五人の女子が応募した。応募したのは、幕末の敗者の家庭環境の子女であった。家族で海外経験があった。
勝者の側から出たのではなかった。実験台の要素があった。

・山川咲子→捨松 捨てたつもりで待つ という風に名前を変えた。山川咲子は津田梅子の盟友。

・永井繁子、津田梅子、山川捨松は長期留学の子女の三人衆となった。二人は病等一年で帰国するようになった。

・山川捨松:津田梅子と深い関係になる。マネジメント。反奴隷制の家庭。子供がたくさんいる家庭。

・永井繁子:牧師。子供がたくさんいる家庭。

・津田梅子:留学の渡航途中船の上で7歳となった。
米国では、アデライン・ランマン チャールズ・ランマン夫妻の家庭に入ることに。
チャールズ・ランマンは森有礼の秘書官であったが確執があった。しかし、アデライン・ランマン女史が梅子を引き取ることを熱望。
ランマン家には子供がいなかった。ランマンは育メンで、子育てに注力したクリスチャンとして育った。学士の資格を取った。

・逆カルチャーショック
宗教と言語カルチャーショック
日本の子女の社会進出の低さに衝撃を受けた。

・帰国後、捨松・梅子に仕事はこなかった。迷った結果、捨松は大山巌と結婚した。

・梅子は、受けた教育を社会に還元をしたいと強く想っていた。

・捨松:活動専業主婦。初めてバザーを行なって募金活動を行なった。

・梅子:捨松がリーダーで梅子がサポートして学校を作る夢を持ったが立場が逆転をした。
重要なことは将来の夢を持って達成をする。ということを成し遂げた。

・梅子は24歳でプリンマー大学へ留学。教育の道を志す。

・トマス先生
留学先でトマス女史と出会う。
女性にも学問を通じて大事と成すとノートに10台にころに書いていた。梅子が師事していた。

・本来、黒田清隆は、米国のホームライフを習得することを目的にしていたが、当初の目的をはるかに超えていた。
エンパワーしていくための国籍を超えたネットワークング力で大学を作った。
大震災時に米国の子女の募金活動・ロックフェラー活動のマッチング力で津田塾大学の校舎を建てた。

・110  149位
政治・経済分野でリーダーシップ層に少ない。

・十一人のうち十人が女性の学長・塾長
総合大学でも女性の学長がついていない。
11.3%が女性学長。

・理由として、昇進したくないなど様々な理由がある

・津田塾大は11代中10人が女性の学長。津田梅子は女性がリーダーになるための仕組み作っていた。

・ビジョナリーとしての津田梅子
人づくりを学校を作る前にしていたから、学校を作ることができた。なぜ5000円の肖像画になったのか?津田梅子は自分が受けた教育を社会に還元をするという強い考えを持っていた
モットーとして変革をする女性をつくることを目指していた。

【ミッションステートメント】
弱さを、気づきに。
強さを、分かち合う力に。
不安を、勇気に。
逆境を、創造を灯す光に。

・何をするべきなのか
自身が得た知見を社会への還元を考え、教育理念に沿った女性に提供することができる。女性の経済的な自立を作る。

・津田英学塾→津田塾専門学校 英という文字が大学の魂だったが、戦争中削除をしてでも継続をすることを選んだ。

・女性の長い列
120年の歴史をと女性たちのリーダーたちが歴史的な人物に押し上げた。

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