【読書会2.15 15日目 藤田達生 明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学】

朝のオンライン読書会開催。今回は、大河ドラマ麒麟がくるで注目された明智光秀の関連本。明智光秀と言えばやはり「本能寺の変を起こしたのはなぜか?」と言う問いに帰結する。本書の中では、三つの背景があったとしている。
①明智光秀は信長の専制化によって、左遷寸前にあった。→羽柴秀吉との出世競争の中で危機にあった
②領土を大幅に削減される長宗我部元親→明智光秀の側近である斎藤利三の親戚となっており、明智光秀派閥の大名の危機
③政治生命の危機に瀕する足利義昭→鞆で将軍として座していたが、政治的な力は大きく減退していた。この三者の危機意識が、未曾有のクーデターへと発展したとしている。また、本書ではないが敬愛する小和田哲男先生(麒麟がくる 監修)のYouTubeチャンネルなどでは以下の通りお話をされていた。
●明智光秀が誰かに操られて本能寺の変を起こしたという考えには反対で、むしろ、光秀なりの究極の危機管理が本能寺の変だったのではないかとみている。
●根拠の一つは、本能寺の変が起こったその日六月二日付の光秀書状の存在である。この書状は現在、原文書はなく、江戸時代前期の儒者であり兵学者の山鹿素行(やまがそこう)が著した『武家事紀』に所収されているもので、文面は次の通りである。_________父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候。其の表の儀、御馳走候て、大垣の城相済まさるべく候。委細、山田喜兵衛尉申すべく候。恐々謹言(読み下しで引用)。 六月二日 (天正一〇年)西小 御宿所 _________●織田信長の悪政をストップさせるための下剋上とみることができる。戦国時代にあって、下剋上は一種の「世直し」の意味ももっていたのである。私は研究家ではないけれど、織田信長の増長によるある種の危機感と使命感が最終的には決定打だったのではないかなと思う。例えば、武田氏を滅亡させた後の武田勝頼の首実験。戦国時代、乱世の事とは言え、首実検においても最低限の死者への敬意は見せるのが当時の常識で、首を拝み、死者にねぎらいの言葉をかけるのが作法だった。だが、信長は悪口をいって勝頼の首を蹴飛ばしたと言う。光秀はこの光景をそばで見ており、きっと「常軌を逸した行動だ」と感じと思う。その他、太政大臣の近衛前久への暴言、天皇から「国師号」というお墨付きをもらった高僧を擁する恵林寺の焼き討ちなど危機意識とある種の世直し的な意識を醸成する上では必要条件が揃っていたのだと感じた。うーん、やはり歴史は面白い。我がまち小平市議会でもある種の派閥力学があるので整理してみようかしら。この後は駅頭へ移動します。
#明智光秀#本能寺の変#小平の変